1987〜1992 | 解体された国と、散り散りになった天才たち
ユーゴスラビアの悲劇——戦争に奪われた幻の黄金世代
1987年のワールドユース選手権を制し、1990年W杯でベスト8に進出したユーゴスラビア代表——その中にはサビチェビッチ、プロシネチキ、ボバン、スーケル、ストイコビッチという名手たちがいた。しかし1991年の内戦勃発と国家解体により、この黄金世代は「ひとつのチーム」としてユーロ1992に出場することを禁じられた。もし戦争がなければ、彼らは世界を制覇していたかもしれない。
1987年——世界を驚かせた「未来の黄金世代」
1987年、チリで開催されたFIFAワールドユース選手権(現U-20W杯)でユーゴスラビアが優勝した。その中心にいたのが、19歳のロベルト・プロシネチキと20歳のズヴォニミル・ボバンだった。プロシネチキの技術とビジョン、ボバンのリーダーシップと運動量——この二人だけでも「特別な世代」と呼ぶに十分だったが、チームにはさらにダウォル・スーケルという決定力を持つストライカーもいた。
同世代よりやや上の選手には、「バルカンのマラドナ」と称されたデヤン・サビチェビッチと、日本でも人気を博したドラガン・ストイコビッチがいた。技術、創造性、個人能力——どれをとっても世界トップレベルのタレントが一国に集中していた。当時の欧州サッカー関係者の多くが「90年代はユーゴスラビアの時代になる」と口を揃えていた。
1990年W杯——解体前最後の輝き
1990年のイタリアW杯、ユーゴスラビアはグループリーグを首位で通過した後、決勝トーナメントでスペインを延長の末に下した。準々決勝のアルゼンチン(マラドナ)戦はPK戦までもつれ込み、敗退した。しかしこの大会でのパフォーマンスは「近い将来、この国が世界のトップに立つ」という予感を多くの人に与えた。
ストイコビッチは大会を通じて卓越した技術を披露し、ドリブルと配球でアルゼンチン戦でも存在感を発揮した。サビチェビッチはACミランへの移籍が決まっており、スーケルはスペインへ向かうことが噂されていた。この大会は「ユーゴスラビアとしての最後の、そして最良の輝き」となった。
内戦の勃発——国家とともに消えた夢
1991年6月、スロベニアとクロアチアがユーゴスラビアからの独立を宣言し、内戦が始まった。10万人以上の死者を出したこの悲惨な戦争は、サッカー界にも直接的な影響を及ぼした。UEFAとFIFAはユーゴスラビア代表を1992年のユーロとその予選から除外した。すでに本大会出場を決めていたにもかかわらず、国連の制裁に従う形で参加資格を剥奪されたのだ。
「政治がサッカーに介入すべきではない」という意見もあった。しかしミロシェヴィッチ政権下での民族浄化が進む中、国際社会はユーゴスラビアの全面的な制裁を選んだ。ユーロ1992に出場したのは、急遽繰り上げで出場が決まったデンマークだった。デンマークはその大会で奇跡の優勝を遂げたが、それはユーゴスラビアの辞退という悲劇の上に成り立った優勝でもあった。
散り散りになった天才たちのその後
ユーゴスラビア解体後、選手たちはそれぞれの新たな「祖国」の代表として国際舞台に立った。クロアチア人のボバンとスーケルはクロアチア代表として、1998年のフランスW杯で3位入賞を達成した。セルビア人のサビチェビッチはACミランで1994年のCL制覇に貢献し、ストイコビッチはフランスW杯でユーゴスラビア連邦として出場した。プロシネチキは国籍問題が複雑で、最終的にクロアチア代表となった。
もしユーゴスラビアという国家が存在し続け、この選手たちが一つのチームとしてひとつの目標に向かっていたなら——1994年のW杯、1996年のユーロ、1998年のW杯でどんな成果を残したか。サッカー史上最大級の「未完のifストーリー」として、ユーゴスラビアの黄金世代は語り継がれる。戦争はフィールドの外で、彼らから最も多くのものを奪った。
現在、ボバンはUEFAの要職を務め、スーケルはクロアチアサッカー連盟会長として活躍している。ストイコビッチは監督として日本の名古屋グランパスやセルビア代表を率いた。彼らは歩んだ道は違えど、あの「幻の黄金世代」として同じ記憶を共有している。国家が崩壊しても、サッカーの才能の記憶は消えない。