1976〜1987 | 中盤の革命家にしてゴールの職人
ミシェル・プラティニ——バロンドール3連続、フランスが生んだ最高の芸術家
1983年から1985年にかけてバロンドールを3年連続で受賞し、ユーロ1984では5試合9ゴールという伝説的な数字を残したミシェル・プラティニ。フランス人として初めて世界最高の選手と認められたこの男は、テクニック・ビジョン・得点力を兼ね備えた、中盤という概念そのものを塗り替えた選手だった。
バロンドール3連続——プラティニだけが持つ記録
1983年、1984年、1985年——ミシェル・プラティニはこの3年間、ヨーロッパで最も優れた選手に贈られるバロンドールを連続して受賞した。この記録は後にクライフやファン・バステンも並び、メッシとロナウドが超えるまで「史上最高クラスの偉業」とされていた。しかしプラティニが際立つのは、純粋なストライカーでもなく、守備的な選手でもなく、「クリエイティブ・ミッドフィルダー」でありながらこの記録を達成したことだ。
ユヴェントスで過ごした1982年から1987年の5シーズンで、プラティニはセリエAの得点王を3度獲得した。リーグ全体のトップスコアラーが、センターフォワードではなくトップ下の選手だった——これはイタリアの守備的なサッカーの文化を考えれば、信じがたい事実である。彼が持つ技術と得点感覚の融合は、現代サッカーにおける「メッシ型」の選手像を30年先取りしていた。
ユーロ1984——5試合9ゴールという神話
1984年のフランスで開催された欧州選手権。ホスト国フランスはプラティニをキャプテンに据え、大会に臨んだ。そして彼は、サッカー史上最も支配的な個人パフォーマンスの一つを見せた。5試合すべてにゴールを決め、決勝のスペイン戦を含む合計9ゴール。大会得点王は言うまでもなく、平均1.8ゴール/試合という数字は大会史上今もなお最高値のまま残っている。
特に印象的だったのはデンマークとの準決勝だ。延長の末に行われたPK戦でプラティニは落ち着いてキックを決め、フランスを決勝へと導いた。試合後、デンマークのスター選手ミカエル・ラウドルップは「プラティニと同じピッチに立てたことは誇りだが、彼を止める術がなかった」と語った。フランスはこの大会で初の欧州タイトルを獲得し、プラティニは文字通り一国の英雄となった。
この大会のプラティニのパフォーマンスはしばしば「個人が大会を独り占めした」例として挙げられる。マラドナの1986年W杯と並ぶ「一人の選手が国を決勝まで引き上げた」事例として、サッカー史の教科書に刻まれている。
ユヴェントスと欧州の頂点——ヘイゼルの影
ユヴェントスではセリエA2度制覇、コパ・イタリア1度、そして1985年のUEFAカップウィナーズカップとUEFAカップ、さらに欧州チャンピオンズカップを制覇した。この欧州チャンピオンズカップの決勝こそが、プラティニのキャリアに永遠の影を落とすことになる試合でもあった。
1985年5月29日、ブリュッセルのヘイゼル・スタジアムで行われたリバプール対ユヴェントスの決勝。試合前にイングランドのフーリガンが引き起こした暴動で39人が死亡した。「ヘイゼルの悲劇」として知られるこの惨事の後、試合は続行され、プラティニがPKを決めてユヴェントスが1-0で勝利した。しかし彼は試合後「あの夜の優勝を素直に喜ぶことができなかった。今でもあの日のことは複雑な気持ちで思い出す」と後に語っている。
遺産——「フランスサッカー」の礎を築いた男
1987年に31歳で現役を引退したプラティニは、その後フランスサッカー連盟の会長、UEFA会長を歴任した(後に八百長疑惑で追放されたが、その業績の評価は選手としての時代と切り離して語られることが多い)。選手としての彼が残したものは明確だ——フランスにおける「テクニカルなフットボール」の文化の礎である。
プラティニが花開かせたフランスサッカーの哲学は、10年後にジダン、アンリ、ヴィエラたちによって世界一という形で結実する。「フランスサッカーはプラティニから始まった」——この言葉は、単なる賛辞ではなく歴史的な事実として多くの識者が認めるところだ。中盤の選手が国を引っ張り、個人の芸術性が集団の力を超える瞬間を、彼はフランスに初めて見せた。