「オオカミ少年」になりかねないマドリー──審判批判より深刻な問題
スペイン紙『El País』で、ジャーナリストのナタリア・フンケラ氏が、コラム「Relatos de una amateur」でダービー後のマドリーを論じた。同氏は、審判批判を繰り返すマドリーを「オオカミ少年」にたとえ、クラブが抱えるのは判定ミスよりも深刻な問題だと指摘している。
✅ 試合後の会見でわかる「2種類のチーム」
同氏は、試合後の記者会見を聞けば、試合を見ていなくてもその内容がかなり正確にわかると書く。 試合後、自分たちが何をしたか、何がうまくいかなかったか、何を改善すべきかを語るチームや監督がいる。中には「僕らの方が悪かった」とはっきり言う人もいる。サッカーに偽りの謙遜は存在せず、悔しさは隠しにくいので、彼らは誠実に見える。 一方で、最初に言い訳の一言を添えたあとは、いつも自分たちより相手の話をするチームもある。ファウルで痛めつけられた、ゴール前に引きこもられた、3回のシュートで3点取られた運が良かった……。試合は常に三人称で語られる。審判か、相手チームか。「負けたのは私たちではありません、裁判長。彼らのせいです」というわけだ。
✅ 「本当にオオカミが来たときに誰も信じない」
同氏は、「被害の物語」を繰り返すうちに評判ができあがり、試合後の分析をすべて疑われるようになると警告する。 「だがいつか本当にオオカミがやって来て、誰も羊飼いの少年を信じなくなる」 そのうえで、ダービーでは退場に値するタックルが2つあったというモウリーニョ監督の主張は正しかったと認める。特にバルベルデへのタックルは、クラブの医師によれば捻挫を負わせるほどのものだった。
✅ VARは約束した正義をもたらしていない
同氏は、VARが約束していた正義をもたらしていないことも認める。 テクノロジーは前髪のわずかなはみ出しによるオフサイドでゴールを取り消せるようになった。しかし、止まった映像を解釈する人間の目は、時にゴール以上に決定的なレッドカードの判定で、今もあまりに頻繁に誤っている。そして、どの職業でもそうであるように、審判にも優秀な人、そうでない人、そして雰囲気やプレッシャーにのまれる臆病な人がいる、と書く。
✅ 会見からは試合の実像が見えなかった
しかし、ダービー後のモウリーニョ監督の会見は、試合がどうだったかを知る役には立たなかった、と同氏は言う。 抗議した2つの場面はいずれも0-0の時間帯に起きたもので、マドリーは過去から問題を引きずっている。 2年で4人目の監督は、昨季同じスタジアムで5失点した中盤と前線でメトロポリターノに乗り込んだ。チームは今もモドリッチとクロースの不在を嘆いている。「ロドリを最も必要としていたのはバルサではなかった」と同氏は書く。
✅ ハイセンのPKとエムバペの沈黙
そこに新たな傷が2つ加わった。1つは、これほど厳しい試合にふさわしくない、未熟なPKの献上。これで51分にハイセンが退場になった。 もう1つは、バロンドール候補のエムバペの存在感のなさだ。チームメイトの助けも得られず、何度もマドリーに勝ち点3をもたらしてきた個人技のアイデアも出なかった。エムバペは試合を通じて枠内シュートを1本も打てなかった。
✅ 「前政権のせい」を繰り返す政治のように
同氏は、「被害の物語」は情状酌量の材料にはなっても、免罪にも解決策にもならないと言う。 そして政治にたとえる。権力を持ち、決断する力と義務を持つ者が、任期中ずっと「前政権から受け継いだ負の遺産」を語り続けて解決策のなさを他人のせいにしたり、自分が何をするかより対立相手のことばかり話したりするべきではない。それでは人々の期待を集められない、と。
✅ ことわざが示す教訓
同氏は、スペインのことわざを引いて締めくくる。他人の目のちりばかり見て自分の目の梁に気づかない限り、マドリーは口先だけに力を使い果たし、「吠える犬は噛まない」状態になる。牛は角をつかんで押さえなければならない。 そして最後にこう添えている。「すべての先生が自分の子どもを目の敵にしていると親が信じ込むことが、子どものためになったためしはない」
※本記事は、El PaísのNatalia Junquera氏のコラム(意見記事)の内容を紹介したものです。
