レアル・マドリードのモウリーニョが、カンプ・ノウで愛されていた頃──「今日も、明日も、永遠に、心にバルサを」バルセロナでの4年間
英メディア『The Athletic』が、モウリーニョ監督がバルセロナで過ごした4年間について報じた。
✅ 「今日も、明日も、永遠に、心にバルサを」
1997年、コパ・デル・レイを制したバルセロナの優勝祝賀会。 バルセロナの旧市街にあるカタルーニャ自治政府庁舎のバルコニーで、若いアシスタントコーチがマイクを握り、眼下を埋め尽くすファンに向けてこう叫んだ。
「今日も、明日も、永遠に、心にバルサを」
さらに翌シーズンのCLでの成功も約束し、大歓声を浴びた。 今その映像を見返すと、思わず二度見する人も多いかもしれない。 この34歳の男こそ、モウリーニョだった。
その後、モウリーニョ監督は、チェルシー、インテル、そしてマドリーで、バルセロナと激しい戦いを繰り広げた。 そして今年6月、63歳でマドリーの監督に2度目の就任を果たした。
それでも、キャリアの初期に過ごしたカンプ・ノウでの4シーズンは、監督としても人間としても、モウリーニョに間違いなく大きな影響を与えた。
今年8月に公開された『Netflix』のドキュメンタリーで、モウリーニョ監督はこう話している。
「バルセロナで働けたのは、とても幸運だった。世界最高の選手たちは、質の高い仕事を求める。若い人間にとっては大きな挑戦だ。私は彼らのためにたくさん働いたが、彼らからもたくさんのものを得た」
✅ 「通訳」ではなかった
モウリーニョは、当時のボビー・ロブソン監督の「通訳」としてバルセロナに来た、とよく言われる。 しかし、それは事実ではない。
1996年夏にバルセロナに来る前、モウリーニョはすでにポルトガルで4年間、スポルティングとポルトでロブソン監督のスタッフとして働き、信頼を得ていた。
ドキュメンタリーで、モウリーニョ監督はこう言い切っている。
「通訳の仕事なんて、大ウソだ。私はGKコーチであり、分析担当であり、スカウトであり、ジムでの手伝いもしていた。ボスのために、チームのために、何でもやっていた」
実際には、最初の頃の記者会見で、モウリーニョがロブソン監督の通訳をしたこともあった。 しかし、クラブの上層部は、モウリーニョのスペイン語の答えが、ロブソン監督の英語とかなり違うことに気づいたという。
63歳でバルセロナに来たロブソン監督は目立たないことを好んだが、モウリーニョはアシスタントとしては異例なほど表に出た。 地元メディアのインタビューで、チームの計画を語ったこともあった。
当時を知るバルセロナの関係者は、こう話している。 「ジョゼは若く、賢く、サッカーでキャリアを築く野心を持っていた。でも、気さくな男で、ほかのクラブスタッフともうまくやっていた」
✅ グアルディオラ、ルイス・エンリケ、ロナウドがいたチーム
当時のバルセロナには、グアルディオラ、ルイス・エンリケ、ストイチコフ、フィーゴ、そして新加入のロナウドがいた。
MFだったオスカル・ガルシアは、こう振り返る。 「モウリーニョの役割は、ボビー・ロブソンのアシスタントだった。とても賢く、準備ができている印象だった。子供の頃からサッカーの世界で生きてきたのが分かった」
モウリーニョは試合中もベンチで存在感を見せ、ときには審判や相手の監督とぶつかった。 1996年11月、アスレティックに1-2で敗れた試合では、ルイス・フェルナンデス監督との言い争いが有名になった。
関係者は、こうも話している。 「若かったが、チームや試合をめぐる心理的な部分をすべて理解していた。ピッチの上と並行して行われている駆け引きに、本能的な感覚を持っていた」
✅ からかわれた「通訳」というあだ名
当時のバルセロナは、前の夏にクライフ監督が去ったことを嘆く声が多かった。 「クライフの退団で、バルセロニスモの中で内戦が起きた。モウリーニョは、ロブソンのよりダイレクトでフィジカルなスタイルを強く支持していた。緊張がたくさんあって、ロブソンもモウリーニョもとても苦しんだ」と、関係者は話す。
一部のメディアは、すぐにカッとなると見られていたモウリーニョを挑発するため、「通訳」というあだ名を使った。 当時のヌニェス会長も、このあだ名でモウリーニョをからかうのを楽しんでいたという。
当時クラブに近かった別の関係者は、こう話している。 「人々はジョゼを真剣に受け止めず、見下していた。彼はそれが本当に嫌だった」
✅ ファン・ハールのもとで「スポンジ」のように
バルセロナはこのシーズン、コパ・デル・レイ、スーペルコパ、カップウィナーズカップを制した。 しかし、リーガではマドリーとの接戦に敗れた。
ヌニェス会長は、ロブソン監督をアドバイザー役に移し、アヤックスのファン・ハール監督を後任に据えた。 カンプ・ノウの周囲の多くの人は、モウリーニョも去ると思っていた。
1997年夏にGKコーチとして加わったフランス・フック氏は、こう振り返る。 「ジョゼは、ロブソンさんが代えられたことにとても腹を立てていて、感情をあらわにしていた」
しかし、ファン・ハール監督とじっくり話し合った後、モウリーニョは残った。 新しい仕事は、次の対戦相手のスカウティングと、試合中のバルセロナのプレーの分析だった。
「スタンドにいるジョゼと電話でつながっていた。彼は『おい、右サイドにスペースがあるぞ』と言ってきた。最初から、試合と相手を分析する力の高さが際立っていた」と、フック氏は話す。
オスカル・ガルシアは、モウリーニョがファン・ハール監督たちの考えをすぐに吸収したことに驚いたという。 「ジョゼはスポンジのようだった。ファン・ハールのアシスタントになって最初の数週間で、すべての概念を覚えていた。何年もアヤックスのフィロソフィーの中で働いてきたかのようだった」
フック氏によると、モウリーニョは学ぶことにとても前向きで、オランダ人スタッフの考えに疑問をぶつけ、自分の考えも提案して、彼らを感心させた。
「ボビー・ロブソンは、人をまとめる素晴らしい監督だった。ルイス(ファン・ハール)は、どちらかといえば先生タイプで、試合の中身やプレーの構造を重視した。そしてルイスは、『こうしてみたらどうか』『あなたは間違っている』と意見してくれる人を好んだ」
✅ シャビ「ロンドもポジショナルプレーも、モウリーニョと練習した」
モウリーニョは、ラ・マシア出身の有望な若手たちとも密接に関わり、バルセロナの指導哲学への理解を深めた。
1998年にトップチームでデビューしたシャビは、ドキュメンタリー『Take the Ball, Pass the Ball』でこう話している。
「モウリーニョは、僕ら若手をとても助けてくれた。ファン・ハールは、ときどき彼をBチームの練習に送っていた。ロンド、ボールキープ、ポゼッション、ポジショナルプレー。そのすべてを、モウリーニョと一緒に練習した」
ファン・ハール監督は、プレシーズンやコパ・カタルーニャの親善試合など、一部のトップチームの試合をモウリーニョに任せることもあった。
「試合当日の指導はすべてジョゼがやった。試合前、試合中、ハーフタイム、そして試合後の評価まで。とても自然なリーダーで、何を求めているか、何が見えているか、何を改善できるかをはっきり伝えていた」と、フック氏は話す。
それでも、モウリーニョは一部から軽んじられていると感じていた。 1998年2月、『Mundo Deportivo』にこう話している。 「外からは評価されていないと感じる。でもファン・ハールには評価されている。初日から、私の仕事を認めてくれた」
モウリーニョは、グアルディオラやルイス・エンリケなど、年の近いベテラン選手たちとも関係を築いた。 それは、ファン・ハール監督にとっても役に立った。
やがて、モウリーニョの役割はどんどん大きくなった。 ベンチでファン・ハール監督の隣に座ることが多くなり、初期のジャージ姿は、スーツとネクタイに変わった。
ファン・ハール監督のもとで、バルセロナは最初の2シーズンで、リーガ2回、コパ・デル・レイ、UEFAスーパーカップを制した。 しかし、無冠に終わった1999-2000シーズンの後、ファン・ハール監督は去った。 モウリーニョも、契約は1年残っていたが、カンプ・ノウでの時間は終わりを迎えた。
✅ 公私ともに激動の日々
カタルーニャでの日々は、仕事の上での学びであり、感情のジェットコースターでもあった。 1996年の秋、新しい生活に慣れようとしていた頃、妻の母が亡くなり、モウリーニョ自身も姉を亡くした。 そして、長女のマティルデが生まれた。
「信じられないほどつらい時期だった。でも、自分があのレベルにふさわしいことを示すために、何でもやっていた。それが私の人生で、キャリアのために戦うことだった」
一家は、バルセロナから海沿いに車で40分ほどのシッチェスに住み、地元の多くの人たちと親しくなった。 「彼は住んでいる場所を愛していて、本当に我が家のように、地元の一員のように感じていたと思う」と、フック氏は話す。
✅ 2008年、バルセロナの監督にならなかったことが「愛から憎しみへ」
2005年2月、モウリーニョ監督は、チェルシーの監督として初めてカンプ・ノウに戻った。 CLラウンド16の第1戦で1-2で敗れた後、フリスク主審がハーフタイムに当時のライカールト監督と会って影響を受けた、と主張した。
ライカールト監督とUEFAは不適切な接触を否定したが、フリスク主審は殺害予告を受け、翌月に審判を引退した。 『Netflix』のドキュメンタリーで、モウリーニョ監督は「またやるだろう。チームが結果を出す助けになるなら、何でもやる」と話している。
そうした騒動があっても、モウリーニョ監督はバルセロナ時代の仲間との関係を保っていた。
2008年の初め、チェルシーを離れて浪人中だったモウリーニョ監督は、ライカールト監督の任期が終わりに近づくなか、当時のバルセロナの幹部、マルク・イングラ氏とチキ・ベギリスタイン氏とポルトガルで会った。 チームとクラブに必要な改革を詳しくまとめたプレゼンテーションで、2人を感心させたという。
しかし、ラポルタ会長は、クライフ氏の助言を受け入れ、ライカールト監督の後任にグアルディオラを選んだ。 グアルディオラの監督経験は、当時Bチームでの1シーズンだけだった。
ラポルタ会長は、2018年のドキュメンタリー『Take the Ball, Pass the Ball』でこう話している。 「難しい決断だった。理事会の一部は、モウリーニョを任命すべきだと強く主張していたからだ」
モウリーニョ監督は、監督の座を求めて働きかけたことは、ずっと否定している。 2022年の『Movistar』の番組『Mourinho at Barca』では、こう話した。 「クラブの上の人から、悪い時期、変化の時期にあったクラブの状況を分析してほしいと頼まれて、それをやった。でも、それ以上のことはない」
それでも、カンプ・ノウの周囲には、モウリーニョ監督が拒まれたと感じていたと考える人もいる。 元幹部に近い関係者は、こう話している。 「2008年に雇われなかったことは、モウリーニョとバルセロナの関係を理解するうえで欠かせない。彼の気持ちは、愛から激しい憎しみへと一気に変わった」
✅ インテル、そしてマドリーでの激闘
2年後、モウリーニョ監督のインテルは、2009-10シーズンのCL準決勝でグアルディオラ監督のバルセロナを破った。 カンプ・ノウでの第2戦では、1時間以上を10人で戦いながらの勝ち抜けだった。
2010年から2013年までのマドリーでの1度目の監督時代には、シャビ、メッシ、イニエスタを擁して無敵を誇ったバルセロナを、フィジカルと戦術で封じる方法を見つけていった。
多くの人にとって最悪の場面は、2011年8月、カンプ・ノウでのスーペルコパだった。 モウリーニョ監督は、タッチライン際で当時のバルセロナのアシスタントコーチ、ティト・ビラノバ氏の目に指を突いた。 この件で、2試合の出場停止処分を受けている。
バルセロナの関係者は、こう話している。 「マドリーの監督になってからも、いつもあいさつをして、話もした。きちんとした関係だった。でも、ティトとの一件は残念だった。一線を越えた」
✅ 「もう一度、世界に示したいはず」
モウリーニョ監督が2013年にマドリーを去ってからは、バルセロナ時代の仲間との個人的な関係は良好だという。 2017年7月、マンチェスター・ユナイテッドがアメリカでバルセロナとプレシーズンマッチを行ったときも、和やかに言葉を交わした。
フック氏は、2018年にマンチェスター・ユナイテッドを去った後、トッテナム、ローマ、フェネルバフチェ、ベンフィカを渡り歩いた63歳のモウリーニョ監督のマドリー復帰に、強い興味を持っている。
「苦しい時期を経て、マドリーはまた美しい挑戦だ。ジョゼという人間を知っている者として、彼は少なくともあと1回、自分ならできると世界に示したいと本気で思っている気がする。それは、あの仕事に必要なエネルギーの素晴らしい燃料になる」
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