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AS2026年10月31日 20:10

レアル・マドリードのディオマンデ、スターはこうして生まれた──はだしでボールを蹴ったアビジャンの路地から、「国が白く染まりつつある」コートジボワールへ

スペイン紙『AS』が、コートジボワールのディオマンデの生まれ故郷を訪ね、スターになるまでの歩みを伝えた。

✅ 布のボールで遊んだ路地

アビジャンの北西、ヨプゴン地区の人口の多いシコジ地区。 そこで暮らす人たちの毎日の一番の目的は、生きのびることだ。 貧しさと過密が、ディオマンデが育ったこのささやかな地区の特徴だ。

ディオマンデの逃げ場は、路地だった。 布や古着、靴下で作ったボールで遊んでいると、何時間もが数分に感じられた。 土やコンクリートの上で、人でにぎわう通りで、通行人をドリブルでかわしながら遊んだ。 仲間の誰かがプラスチックや古い革のボールを手に入れると、それはすぐにみんなの宝物になった。

スパイクは、手の届かないぜいたく品だった。 1日3食をとることさえ、今も夢のような地域だ。 はだしやサンダルでボールを蹴るのが当たり前だった。

父が仕事を探してフランスに渡った後、ディオマンデは母と姉のロクサーヌに育てられた。 幼いころから、ほかの子とはまったく違う特別な才能を見せていた。 悪魔のようなドリブルと、すさまじいシュート。 そのため、小さいころから「ロベルト・カルロス」と呼ばれていた。

✅ 10歳でアカデミーへ

数えきれない路地での試合の一つで、ディオマンデは、サッカーに情熱を注ぐ実業家で、才能の発掘も手がけるデズ・バンバ氏の目に留まった。

バンバ氏は一目見ただけで、自身が設立したアカデミー「AFIスッド・コモエ」に来るよう誘った。 アカデミーを任されていたのは、バンバ氏の信頼するスペイン人、ホセ・フリアン・ロペス氏だった。

アビジャンから東に100キロのアスバにあるこのアカデミーに、10歳のディオマンデが加わったのは2014年。 40人の才能ある子どもたちの多くは、そこで初めて学校に通い、1日3食、ときには4食を食べられるようになった。

✅ 「ゴールから5、6人を抜いてゴールまで」

ディオマンデの最初の指導者で、アフリカのサッカーに詳しいロペス氏は、今はバルデモロのサッカースクールでコーディネーターを務めている。 ロペス氏は、こう振り返る。

「すぐに、ボールを持つととても特別な子だと分かった。ドリブルができて、相手に向かっていき、縦に鋭く、怖いもの知らずだった。すぐにアレビンからインファンティルに上げた。最初に取り組んだのは、間を取ることと、試合を理解することだった。自分のゴール前でボールを持って、年上の相手を5、6人抜き、ゴールを決めるか、ボールを奪われるまで止まらなかったからだ」

「いつもとても賢くて、学校でもピッチでも学びたがっていた。考え方を説明するとき、私を見つめていたあの目を覚えている。話を聞いて、物事の理由を知るのが大好きだった」

アカデミーは、子どもたちに総合的な教育を与えることを目指していた。 入ってくる子の8割は、読み書きができなかったからだ。 ロペス氏によると、ディオマンデは教室でもピッチでも目立っていた。

「ドリブルもシュートも、生まれつき持っていた。最初のスパイクをあげたら、飛ぶように走り出した。チームメイトはシュートがやっとゴールに届くくらいだったが、彼はキックが信じられないほどうまかったから、CKを任されていた。何時間でもボールを落とさずにリフティングできた。戦術はたくさん教えたが、サッカーをする天賦の才は、生まれたときから持っていた」

✅ 「食べられることが一番大事」

アカデミーは、極度の貧しさから夢の暮らしへと移った子どもたちにとって、楽園のような場所だった。

「多くの子どもたちが言っていたことを思い出すと、鳥肌が立つ。アカデミーにいて一番大事なことは何かと聞くと、毎日食べられることだと答えた。しかも、それは無料だった」

「あの子どもたちのうち11人が欧州でプロ選手になり、20人以上がコートジボワールの1部でプレーしている。でも、ヤンは別格だ。はだしでプレーしていた子が、世界的な大スターになったのだから」

✅ 5歳上の相手にもひるまない

ディオマンデの成長は、驚くほど速く、止まらなかった。 どんなに難しい挑戦でも、見事に乗り越えていった。

ロペス氏は、5歳年上の相手と戦った試合を忘れられないという。 「あそこにはリーグがないので、親善試合を探していた。中には、うちの子たちの父親に見えるような年代のチームもあった。それでも彼は決してひるまず、毎回すごい才能を見せた。挑戦が大好きだった。ほとんど右ウイングでプレーしていて、DFを打ち砕く悪魔だった。左で起用するようになったのは、何年も後のことだ」

✅ 15歳で「ほかの選手よりはるかに上」

アフリカ大陸の選手たちと13年間仕事をしてきた、アカデミー「アフリカン・タレント・エリート」のフラン・カスターニョ氏も、ディオマンデを見てきた一人だ。

「初めて生で見たのは、U-17アフリカネーションズカップの予選の大会だった。最初の瞬間から目を引いた。簡単に相手を抜き、両サイドから攻撃の出口になり、才能があって、ゴールも決めた。あの大会で何点も決めた。まだ15歳で、相手より年下だったのに、ほかの選手よりはるかに上に見えた」

欧州でプレーする運命の選手だと、誰もが分かっていた。 しかし、その一歩は簡単ではなかった。

ロペス氏は、こう話す。 「年に2回スペインに来て大会に出ていて、特にヤンは目立っていた。でも、子どもたちはまだ幼く、長い目で見るプロジェクトの契約を結ぶ勇気のあるクラブはなかった」

カスターニョ氏も、こう説明する。 「間違いなく賭けるべき才能だった。でも、FIFAの規則で、18歳にならないと欧州には行けない。16歳で契約はできても、プレーはできない。だから、フロリダに行ったんだ」

✅ 「国が白く染まりつつある」

ディオマンデのおとぎ話は、最も輝かしい章を迎えた。 コートジボワールでは、初めてマドリーに加入した同胞に、熱狂と国の誇りの大きな波が起きている。 ディオマンデの名前は、まだ若いながら、ドログバやヤヤ・トゥレといった伝説にほぼ並ぶほどになっている。

アビジャンにいる、コートジボワールのバスケットボール代表監督、ミゲル・アンヘル・オヨ氏は、『AS』にこう話した。

「大騒ぎになっている。ほとんどこの話しかしていない。みんなが強調するのは、ディオマンデは、才能と努力と仕事があれば、どん底の貧しさから出発しても頂点に行けるという手本だということだ。この地域では、サッカーは日々の問題から逃れる手段で、マドリーへの移籍のニュースは、みんなの心を後押しした。未来への希望を与えてくれた」

「ここでは昔からスペインのリーガがよく見られていて、白か青とえんじのユニフォームを着た人を、どの年代でも街でよく見かける。これからは、そのバランスが崩れ始めている。国が白く染まりつつある」

✅ ドログバへの思いと、モウリーニョの人気

コートジボワールのスポーツ情報サイト『Sport Ivoire』のカデル・ギラヴォギ記者も、こう話す。

「みんなとても誇りに思っていて、熱狂が広がっている。適応に苦しんだスタートの後、自信をつけて、潜在能力の大部分をすでに見せている。挑戦を乗り越えていて、コートジボワールのすべての若者の手本だ」

「もともと、ここではマドリーのほうが好まれていた。2009年のCL準決勝、チェルシー対バルセロナの物議を醸した判定の後、多くのファンが私たちのヒーロー、ドログバに共感して、バルセロナを嫌うようになったからだ。ディオマンデの加入で多くの人がマドリーのファンになったし、とても人気のあるモウリーニョがいることも大きい」

✅ 故郷に仕送りを続ける

関係者によると、ディオマンデ本人も、同胞の誇りを強く感じている。 マドリーへの加入を大喜びで迎えたディオマンデは、つつましい出自を忘れていない。 それが、毎日努力を続け、決してあきらめない原動力になっている。

ディオマンデは、家族や親しい友人たちを貧しさから救い出しただけでなく、育った地域に定期的に仕送りをしている。 そこで、ディオマンデは、亡くなった姉ロクサーヌの揺るがない応援を支えに、いつか「アフリカのクリスティアーノ・ロナウド」になることを夢見ていた。

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